この時期、日が暮れるのが早いと思う。
息子と一緒の帰り道はまだ4時前後なのに、もうこんな空。
きれいだなあと感動し、無意識にやっぱり祈りたくなる。
小さな子の虐待の報道を聞くといつもしばし、非常に重い気持ちになる。心も体も頭の中にもただ哀しみのしみこんだおがくずだけがいっぱいに詰め込まれてしまったような気分になる。
想像力を止めよう、と必死で呼吸する。
どんなにその子が怖かったか。痛かったか。寂しかったか。悲しかったか。ひもじかったり、寒かったりして、でもその傷口の痛みを誰に訴えることもできず。
最愛の、最大の救世主であり、愛情の源であるはずの母や父らに、幼い心と体は訳も分からず痛めつけられていくのだ。死ぬほどに・・・。
いけないいけない。
どんどんどんどん苦しくなる。
もう考えるのをやめよう、と深呼吸する。
言ってはいけないことかもしれない。だけど息苦しいから言いたくなるのだ。
子供を産んではいけない人ってやっぱりいるよね、と。
恋は手軽な起爆剤。ありふれた日常に煌めきのエッセンスを添えてくれる。その恋愛が発展して結婚・出産なんてことになればとても素敵そう・・・と感じる方はとても多いのかもしれない。
けれど結婚・出産イコール幸せ、とはならない。
二人で一緒に歩いていきます、というスタートはロマンスに満ち溢れているかもしれないが、実は非常に「普通の生活」への道の第一歩であることに他ならないんじゃないかと思う。
生きるということにはお金が要る。単純に。
暮らし始めたその瞬間から、お金はいるのだ、二人分。
自分が欲しい、したい、と思う物事に必要なだけのお金をまず自分が稼ぎ出していけるのか計算してみる。
楽してすぐにお金を稼げる手段をお持ちの方ならいいけど、ほとんどの方はそのような幸運には恵まれていらっしゃらないことだろう。
自分が欲しいと思うだけの生活を手に入れるにはそれなりの対価としてまず、自分の時間を相当そこに注ぎ込み、気を使って体力を使って働かなければいけないはずだ。
基本の8時間労働を月に22日繰り返したとして得られる収入と、
自分たちがしてしまうであろう支出をまず算出すると、そこにさらにもう一人分の生活費があるかどうかはすぐにわかると思う。
小さいとはいえ、ベビーちゃんは立派な人間。お金がないと生きていけない。
しかしお金も時間も背負っては生まれてこない。その上、自分のことも自分でできない。こちらのお金と時間と手間と気力を根こそぎ持っていくことになるわけである。
それじゃあ困ると思っても、だからといってすぐ支援してくれる機関は皆無に等しい。
子を育てるために必要な時間はまず、産みての女性が物理的にも仕事ができなくなるから基本はそのまま育てることにもほとんどの責任を持って遂行していくしかない。
これが結構たまらない。自分の体の中から全く別の生命体を作り出し生み出すということをしてのけるためには、自分の体も大変革を行っているわけで、まあ、年齢にもよるのかもしれないけれども、ホルモンのバランスは崩れて体調が変わるし、びっくりするほど抜け毛もあったりして、最初はなかなかすぐには通常(と自分が思っていた母体になる前の時代)に戻れないのだ。
その上で赤ちゃんは泣く、泣く、泣く。泣いて泣いて泣きまくる。もうそれはしつこいなんて言葉ではすませぬほどに泣く。おっぱい(ミルク)おしっこ、うんちの果てしのない繰り返し。
身も心も疲弊するのはあっという間だ。
ところが傍にいるパートナーの男性は、それがピンとこないのである。
赤ちゃんが泣き、女性が必死であやしたり、ミルクをあげたりオムツを変えたりして起きている間も男性はただ眠り続けるという人はとても多い(うちもそうだった)
赤ちゃん誕生の瞬間から、女と男の間には体と心の両方にかなり温度差がある。
これを埋めていかないと、その後のペアとしての関係は必然成り立たなくなっていくのだが、そのための努力や考え方にはかなり、大人としての精神的な成熟度が求められる感じで、ここらでつまづく人はとても多い。
甘々の恋人同士の関係が、いっきにリアルにシビアになっていく・・・そういう段階である。
しかし男性もまた大変なはずだ。
それまで女性が働いていた分を埋めて、さらにベビーちゃんのオムツ代(月7、8千円はするのでは)と、粉ミルク(月5千円はするかな)、着るもの、食べる物、車やそれに付随する義務のあチャイルドカーシート、ベビーカーなどなど必要な物を購入し、与え続けていくこと・・・は、一気に男性が稼ぎだすしかないのだ。(女性が異様に体力があり、要領よく立ち回れてすぐ仕事復帰できるとしても)
でも、それ、たぶんいきなりは無理だろう。勤め先に報告しても、若干の福利厚生手続きがあるくらいなものである。扶養手当は微々たるもの。
残業増やして働いても得られるお金はそう多くないことが普通だ。
今まで買っていたもの、食べていたものを減らし、働く時間を増やすという禁欲的な世界に突入することでしか、その事態を生き延びる術は、普通はないのだ。
その苦労を共に楽しみ、くぐりぬけていける気持ちの余裕がもてるほどの恋であるのなら。
二人の間に生まれてきた赤ちゃんは、お金は全くもっていなくて、むしろこちらのお金と時間を食いつぶすだけの非常に重たい存在だけれども、かわいいかわいい愛の結晶であることに間違いはない。
そう思えた時点で、やっとその結婚と出産は幸福なものになる・・・。
まあ、そこから先がまた大変、長いんだけれども。
虐待されたお子さんのお住いの状況やご両親(とされる人たち)の様子を報道の画像や言葉などでちらほら伺うになんとなく、同じような気配を感じる。幼さ(ご両親の実年齢に限らず、まあまあの年であっても精神的な)が現実に対処しきれなかった結果、そこから生まれたストレスが、一番無力で弱い存在に向けられた、という悲しすぎる結果になってしまったのだと思えてならない。
素敵な恋と結婚の結果が、そんな不幸になることが多いのなら、やっぱりちょっと考えるべきだと思うだろう。少なくとも出産はちょっと待って、と。
生まれたはずの子供が1000人以上も所在がわからないでいるという恐ろしい国に、日本はいつのまにかなってしまっている。
その現実の根元にもおそらく、少なからず経済的問題と精神的に未熟な両親という問題があるのであろうと思う。だからやっぱり、出産はな誰でもしていいものではないと言いたくなるのだ。
昔、私は施設に捨てるように預けられている子供さんたちは不幸で哀れだと本当に思っていた。今では、施設に預けるという選択肢と行動をしてくれる保護者がいただけ、そのお子さんたちは幸せだったのだと心から思う。
悲しいけど、その現実に立ち向かっていく力が私には全くない。祈ることしかできない。
ある意味、どんな事故や災害のニュースよりも辛く思える。
私は父が若くして癌を患い、余命幾ばくもないと宣言された状況の中で生まれた。生後4ヶ月で父は亡くなり、母は貧困の中必死で私を守り育ててくれていて、心配した周囲にお見合いを進められて出会った継父と再婚。妹も生まれて、物心ついた時から私は普通の家の普通の子供でしかなかった。
ありがたかった、と今にして思う。
当時、私が当たり前だと思っていたことは、実は全然当たり前ではなかったのか、と・・・いや、そんなことはない。
当たり前なんだと思いたい。
誰もがそうあって欲しいと、やっぱり祈ることしかできない。